松本市:民蘇堂 野中眼科 
TEL.(0263)32-3404

安曇野市:民蘇堂 あかしな野中眼科 
TEL.(0263)62-2929

230余年の眼科の歴史に学ぶ

長野県木曽郡木祖村の旧医院跡地に、
古くからの医療器具や医学書を
展示している資料館

1785年から230年以上続く
野中眼科の歴史の中で、
代々受け継がれてきた医学書や
医療機器、点眼瓶などの貴重な品々を
大切に保管しています。

天明5年(1785年)、初代・院長 野中李杏(りきょう)が、菅村(現在の長野県木曽郡木祖村大字菅)に民蘇堂野中医院を開業して230余年、「民のための医療」を掲げ、地域医療に従事してきた野中眼科。
現在は野中眼科本院 院長の茂久とあかしな野中眼科 院長の隆久で7代目となります。
当時は医師自らが薬研※1で粉砕した薬草を調合し、湯で溶いて薬を作っていました。また、現代では通院治療で済む疾患の患者さんに1ヶ月入院してもらい治療をしていた時代です。先代が勉学に励んだ医学書や多くの検査機器には、今なお使われている機器の原理や治療の基礎があり、過去の発展が現代の治療に生かされていることがわかります。
民蘇堂資料館では、こうした先代の医師たちが実際に使用していた数千点もの医学書や医療機器を、テーマごとに5つの建物に分けて保管・展示いしています。
今日の眼科医療の礎となる治療や検査の歴史とともに、開業から今日までの野中眼科の地域医療に対する思いが、当資料館には収められています。

※1 薬草を粉砕する道具、別名「くすりおろし」

双眼蒸気噴霧器

罨法には温罨法と冷罨法があり、さらにそれらには湿罨法と乾罨法とがあります。湿温罨法は明治始期より昭和期まで広く使用されており、その方法は陶製の容器に約45〜50℃の湯または罨法液(主に硼酸水)を入れ、これにガーゼを浸した後に箸でつまみ上げ眼罨法を行います。大体1回の時間は10〜20分で、これを1日数回行います。この方法は頻繁に交換が必要なので、手数の掛からない蒸気噴霧器が考案されました。

新訂 眼科学(上中下3巻)

著者の河本重次郎は、但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)出身。東京帝国大学卒業。
明治22年(1889年)東京大学医学部眼科学教室主任教授に着任。大正11年(1922年)退官。上巻は眼科総論、中巻は目の検査、神経、下巻は眼球の硝子体、緑内障のことなどが書かれています。
発 刊:明治26年初版(写真は明治32年8月発行の第7版)
発行者:丸善書店
著 者:河本 重次郎

鉾形刀・眼科用メス「日本号」

戦後間もない昭和28年、新潟新発田の梅田信義は、ハイスピード鋼を用いてブレーフェ線状刀の試作に成功し、以来日本各地の眼科医の後援のもと鉾形刀その他の眼科用メスを作り「日本号」として好評を博しました。

泰西眼科全書

799年 宇田川玄眞による日本で初めてのオランダの眼科書の和訳。

展示品の一例

書 物

専門書

先代が学んだ眼科学をはじめとした書物が数多く収蔵されています。
今のような写真技術がなかった明治から昭和初期には、各大学に眼底図や外眼部疾患を写生記録するために画家が在籍し再現ていました。
血管や疾患の特徴が微妙な変化をつけて詳細に再現されています。

明治時代のカルテ

当時は「禮施布篤(レセプト)」と記載されていました。
野中眼科に残っている明治時代のカルテ番号からは、当時の新規患者は1ヶ月に30〜40人、年齢は20代が37.8%、次いで30代が20.2%、60歳以上はわずか4%ほどだったと推測されます。

和漢三才図会(わかんさんさいずえ)

日本で最初の図説百科事典と言われており、
全105巻にも及びます。
「医師たらんとするものは、
天・地・人の三才を明らかにしなければ、
疾患を治癒することはできない」
という考えの元に作成されました。
初代が購入し、野中家の家宝とされています。

正徳2年(1712)、大阪の医師寺島良安の編集により刊行されたものです。寺島良安は中国の「三才図会」にならって、和漢古今の事物を天文・地理・器具などの項目に分けて分類し、非常にわかりやすい図版が随所に挿入されていて、今、ひもといてみても興味深い編集になっています。眼に関しては、第12巻支体部に掲載されています。
使用している眼科用語を見ると、中国から日本に伝来された眼科の医典、「眼科全書」(貞享5年・1688)と「銀海精微」(寛文8年・1668)などより採用しています。
本書に記載されている眼科用語と、日本眼科学会編の「眼科用語集」を比較してみると、大眥、内眥(まかしら)−内眼角。小眥、外眥(ましり)−外眼角。瞳子−瞳孔。白仁、白珠−球結膜と強膜。上胞−上眼瞼。胞瞼−上眼瞼と下眼瞼。神光−水晶体。神水−硝子体など。
因みに、現在使用されている眼科用語は、文化12年(1815年)、杉田立郷が和訳した「眼科新書」によるものが多く使われています。

道 具

点眼瓶

ガラス瓶だった頃から、近代のパッケージ付きのものまで、多種多様の点眼瓶が展示しています。明治時代、点眼薬は1剤5〜15銭だったそうです。

歴史を感じる検査道具

乱視の状態をみる道具や近視度数を図る道具など、今でこそ機械で自動計測が可能ですが、その原理は変わらず、現在でも十分使うことが可能な代物です。

検査機器

歴代の野中眼科の医師たちが使用してきた視野計や眼圧計、顕微鏡を数多く並び、年代ごとの機器の説明や特徴を詳細にわたりパネル展示しています。

手術台

手術台は板を広げると成人が横になれるほどの大きさのもので、昔野中眼科で実際に使用されていたものです。 明治時代は手術を含め、ほとんどの患者さんは泊まり込みでの受診だったために、病院の病室だけでは足りず、医院前には2軒の門前旅館がありました。

往診で使用された駕籠(かご)、
薬を作る道具

入院施設もなく、今のような交通網も発展していなかった時代。当時は重症患者を診るために、駕籠で往診に向かっていました。また、医師が自ら薬を作っていたため、薬研や薬湯煎器、薬さじなど薬を作る道具も数々保管されています。

民蘇堂資料館の所蔵資料は、展示・収蔵を目的とし保管・管理しています。
上記目的をご理解いただいた上で、眼科医療の発展に貢献されている団体や医師の方々には資料館の見学もご案内させていただいております。

見学をご希望される方は右記までご連絡をいただきご確認ください。
なお誠に勝手ではございますが、諸事情等によりお受けできない場合もございます。
また、一般の方の見学はご遠慮いただいておりますので、 ご容赦いただきますようお願いいたします。

お問い合わせ先

医療法人 民蘇堂 野中眼科

〒390-0817 長野県松本市巾上2-4

TEL.0263-32-3404

Column

旧菅橋(すげばし)

写真提供/市民タイムス
2012年1月30日 市民タイムス掲載
先人たちが郷土愛を込めて作られた橋/土木遺産

昭和初期の不況只中に木祖村の発展を期した村道改修事業の一部として建設され昭和40年までの33年間活躍した、木曽谷で初めての鉄筋コンクリート拱橋。

菅橋(すげばし) ●昭和8年(1933年)竣工/所在地:長野県木曽郡木祖村
●平成23年10月/土木学会選奨土木遺産として認定


野中眼科と橋の関わり

現在、民蘇堂資料館となっている木祖村(旧菅村)には、初代野中李杏が開院した野中眼科があり、村内外から病人の信頼を集めていました。 明治44年、中央西線が開通すると、県外からも一段と多くの患者が訪れ賑わっていましたが、最寄りの薮原駅からは遠く、歩いて通う患者の方々の苦労に心を痛めていました。
そこで大正15年、当時の院長である野中隆太郎は、同村内にあった奥原医院と二軒で出資をし、当時路線バスの権利を持っていた湯川酒造の湯川寛雄を社長とする菅自動車商会を設立、バス会社を開業。以後、全国でも珍しい医者バス(乗合自動車)を走らせ、患者の便宜を図っていました。
菅橋はそうした自動車の安全運行を実現させるため昭和8年に建設され、集落の人々も橋の恩恵を受けました。野中眼科はこの橋の建設にも多額の出資をしたとされています。

また、木祖村にある「やぶはら高原スキー場(旧薮原スキー場)」の開設にあたっては、当時の院長である野中茂秉が尽力を尽くした一人であります。昭和8年スキー場開設の2年前から建設準備に着手し、名古屋鉄道より特別に払い下げを受けた「山の家」を建設するなど、地域の振興のため献身的に骨を折りました。スキー場までの交通は菅自動車商会の乗合自動車を定期的に運行させ、スキー場は大いに賑わい、菅橋はこうした運行にも役立っていました。
民蘇堂野中眼科の「民蘇堂」とは、岐蘇(木曾)の民(たみ)のための医院。
この「民のための医療」という精神は時代は変わった現在でも、当時より今日まで受け継がれております。

『医の歳月ー野中眼科二百年史』
歴代が築き上げた民蘇堂野中眼科の歴史をたどり、
まとめた一書。
著者/6代目 野中杏一郎


地元新聞紙 市民タイムスにも旧菅橋の記事は掲載されました。
>>詳しくはこちらをご覧ください。

竣工当時の菅橋(昭和8年)
/野中眼科二百年史より
草創期の薮原スキー場。右は「山の家」
/野中眼科二百年史より
写真提供/市民タイムス
2012年1月30日 市民タイムス掲載
竣工当時の菅橋(昭和8年)/野中眼科二百年史より
草創期の薮原スキー場。右は「山の家」/野中眼科二百年史より